音の記憶からオタク道まで

フリーペーパー最新号「ほんのひとさじvol.4」が12月に発行されました。今回の特集は「音の記憶」

学生時代はオーケストラ愛好会に入っていてビオラを弾いていた私にとってのそれは、オーケストラのチューニングの音。プロのオーケストラの演奏会で聞く音なら、これから始まる演奏への期待にワクワクする音。これが年に一度の定期演奏会、本番での自分の音なら緊張に震えそうな音。今でもたまに夢に出てきたり…。

どちらにしても、チューニングから演奏が始まり…終わった後の感動や高揚感はいつまでも私の記憶に残って忘れられないものになっています。

 

最近、そんな私の音の記憶をくすぐる本を読みました。書肆侃侃房からも『うさと私という本を出している高原英理さんの『不機嫌な姫とブルックナー団』

19世紀オーストリア出身の作曲家ブルックナーをこよなく愛すオタク3人組とコンサートで知り合ったブルックナーファンには珍しい(らしい)女性とのお話。4人とも一歩踏み出せない残念な自分の人生を少し投げやりに客観視しています。ブルックナーの曲を聴くことに関しては、真っ正面から受けとめる懐の広さがある彼らは、正当派のクラシックからは少しかけ離れ、当時なかなか受け入れられなかったブルックナーの音楽を通して、自分たちの姿を反影しているようです。

ブルックナー交響曲が長いこともあって、なかなか実際に演奏をしてもらえず、演奏をしてもらうために主催者の意図に合わせて楽譜を改訂していたそうで、

そのことを弟子に悔しいと責められます。が、ブルックナーはこの時代での完全な演奏は無理だとわかっていて、一切の削除改訂のない楽譜を宮廷図書館に寄贈していたのです。そして「完全な楽譜は、後世の聴衆のためにある」と。なんてかっこいいんだブルックナー

不機嫌な姫とブルックナー団

不機嫌な姫とブルックナー団

 

 

「ほんのひとさじvol.4」にも高原さんがエッセイを書かれていますが、この本のことが出てきます。オタク三人組のひとりが「自分たちにはモーツアルトのような華麗な曲を聴く資格がないし、美しい世界から締め出されている。野暮ったいブルックナーがちょうどいい」と吐露するところがあって、高原さんは自分の経験からこの言葉が出てきたと。キラキラの王道を行くモーツアルトを聴くとき今でも、ほんの少し悲しい気持ちになるそうです。

私はこんな気持ちで音楽を聴き分けたことがないけれど、今回この本を読んで今迄聴かなかったブルックナーを聴いてみたら(ブルックナーのおかげで改訂なしのものが聴けますから)、ものすごく自分の好みにあっていたことに気づいて、しかもモーツアルトはそんなに好きじゃないし、私もブルックナー団に入ってオタクたちに姫とか呼ばれてみたいなどと思ったのでした。そうそうこの本はクラシックのことも詳しいですが、オタクっぷりがすごくて、それもまた楽しいです。

そういえば、『うさと私』も、「うさ」姫と姫を大切にする「私」の想いがオタク道全開に綴られています。こんなに愛されたことってあるか…など、うっかりまじめに考えてしまいます。

寒い季節、あったかい部屋でゆっくりこの世界に浸ってみてくださいな。

今年も一年ありがとうございました。来年も書肆侃侃房の本をよろしくお願いします。