つれづれkankanbou

福岡の出版社「書肆侃侃房」の日々をつづる。

劉暁波のこと

 中国のノーベル平和賞受賞者の劉暁波が末期の肝臓がんで病気療養のために、刑務所の外で治療を受けているというニュース、しかも妻劉霞が寄り添う様子の画像や映像まで流されている。危機的状況なのは変らない。まさに、訳詩集『牢屋の鼠』の中の次の詩のようではないだろうか。追い詰められた二人の様子を思う。

 

 断崖絶壁――妻へ 劉暁波  1996.12.15

 

僕は断崖絶壁に追い詰められている

鋭い岩が肌に突き刺さる

ある指令が僕を奮いたたせ叫ばせ

世界に向けて最後通牒を発する

 

僕は立ちあがれるけど叫べない

僕は叫べるけれど立ち上がれない

まっすぐ伸ばした体は硬直し

狂気の叫びはねじ曲げられる

 

深い淵は険しく鋭くえぐられ

真正面からの挑戦は拒まれる

体の極限とは二者択一しかない

絶対の指令が両者を兼ね備えられたらよいのだが

 

選べるのは、何も考えずにただ踏んばること

まっすぐに立って叫び、骨を粉にして身を砕くか

または深い淵に屈服するか

巨大な青空がもう押しつぶしにそこまでやってきている

 

つぎは、「詩と思想」2014年11月号に発表したものの再掲です。

 

詩は世界を変えられるか

 詩集『牢屋の鼠』が問いかけるもの

                              田島 安江

 

 劉暁波は、中国人権活動家で作家だが、彼が優れた詩人であることはあまり知られていない。中国では、彼の詩は殆ど読まれていないからだ。暁波は2008年、中国民主化を求める「〇八憲章」起草の首謀者とみなされ、直前の12月に当局に逮捕・拘束される。「国家政権転覆扇動」罪で11年の刑が確定し、収監中の2010年10月にノーベル平和賞の授賞が伝わるが、中国側はそれに反発。中国はそれまでノーベル賞の受賞歴がなかった。一番待ち望んでいたはずのノーベル賞にもかかわらず、国民に知らせることもなく、あくまでも認めないという選択をした。世界中の人からの嘆願書も無視され、とうとう、暁波の出獄も授賞式出席も叶わなかった。劉暁波のために用意された空っぽの椅子こそが中国における言論の自由の不在証明にほかならない。

 

 妻の劉霞は、以来ずっと自宅軟禁状態で、アムネスティーの報道によると、友人の訪問も、自由に出かけたり買い物に行ったりすることも禁じられているらしい。2014年1月に心臓発作を起こした時も、適切な治療を受けられなかった。最近の報道では、なんとか治療を受けられるようになったが、極度の精神的ストレスの状態だという。本人が望んでいるのは、暁波との手紙のやりとりと、外に出て働くこと。

 

今回、無謀にも中国語の翻訳という作業に取り組んでみてわかったことがある。辞書を引く楽しみ。納得できる言葉にであった時の、言葉を紡いでいく時の興奮。まるで自分の詩を書いているときのようだった。言葉の動きが気になる。こんなふうに言葉が動いていくはずがない、と。私は詩を訳しながら、暁波と霞、二人の濃密な世界へと踏み込んでいった。あがき苦しみながら、詩の行間に潜む、小さなささやきや嗚咽、ため息を聞こうとした。そこに潜む裂け目のようなものを覗くことで、深い闇の底に沈む言葉を拾おうとした。

今年6月4日に25年を迎えた天安門事件。テレビや新聞のニュースは心痛むものばかり。香港や台湾では、デモやコメントが流され、当時の映像が日本のニュースでも報道された。広場に集まった若者を銃弾が襲い、倒れた若者を戦車が轢いていくという、目をおおうような光景だった。

 

牢屋の鼠

 

一匹の小さな鼠が鉄格子の窓を這い

窓縁の上を行ったり来たりする

剝げ落ちた壁が彼を見つめる

血を吸って満腹になった蚊が彼をみつめる

空の月にまで魅きつけられる

銀色の影が飛ぶ様は

見たことがないぐらい美しい

 

今宵の鼠は紳士のようだ

食べず飲まず歯を研いだりもしない

キラキラ光る目をして

月光の下を散歩する

 

 この詩をどう読むか、反応はまちまちだった。例えば「鼠」。劉暁波その人のことだと思う人が圧倒的に多い。一匹の小さな鼠は、いかにも牢獄に囚われている人にふさわしい。だが、この詩にはもっと深い意味があるように思える。剝げ落ちた壁も、血を吸って満腹になった蚊も、彼を見詰めている。彼は、どこにも行けない。鼠は誰なのか、見張りともとれる。別の詩に出てくる鼠は間違いなく、見張りなのだから。今宵の鼠は紳士だ。あまりにも月が美しいので、ただ、彼を見詰めているだけ。彼の心を知っているのは、全てを知り尽くした剝げ落ちた壁だけなのかもしれない。

 

 この詩集はほとんど全篇が妻の霞に捧げるというカタチをとっている。暁波は、たった一人に向かって書いている。その一人とは、全世界の悲しみを引き受けてしまった、かなしい人一人ひとりなのだ。暁波が差し出す詩は、愛の詩のカタチをとっているために、妻のための愛の詩として読まれ、その深い意味が見過ごされてしまいがちだ。

彼が起草したとされる「〇八憲章」の論旨は、共産党一党支配をやめること、民主化を進めることだ。中国という国の現状をみる限り、暁波らの主張は共産党支配者にとって、危険極まりなく、脅威そのものだろう。

 暁波は詩の行間に、巧みに主張を織り込んでいる。時に誰もが知っている海外文学のフレーズや文学者への呼びかけを使って。

 

逃避への渇望————妻へ

 

逃亡を夢想することを許されるなら

僕はすぐさま君の足元に横たわりたい

それは死に絡むことを除いて

たった一つの義務であり

曇りなく明るく澄み渡った鏡のような時間

永遠の幸福でもある

 

君の足指は折れたりしない

一匹の猫が君のすぐ後ろについている

君のために猫を追い払ってあげたい

振り返った猫が

鋭い爪を伸ばそうとする

ブルーの目の奥に

監獄があるかのようだ

もし僕がためらいなく踏み出したら

たとえ小さな一歩でも

君を一匹の魚に変えてしまうだろう

 

驚愕————妻へ  (部分)

 

驚愕は一つのうそからはじまる

二つの空のコップ

血痕をきれいに拭き取った広場は

もっと裸の女に似ている

部屋を掃除しながら証拠を廃棄し

記憶を片づける

窓は海から遠く離れ

突然空が残酷に白み

ホコリと詩の間の盾になる

人々がただ笑っている

どうか存分に笑うがいい

 

 これらの詩篇には、巧みに天安門広場で起こったことと、それを隠蔽し、何もなかったかのように口を拭った当局への批判が込められている。「記憶を片づける」ことなど、誰にもできはしない。

 

もう一度花嫁になるーー僕の花嫁へ

 

君はもう一度花嫁になる

まるで本の一ページを書き始めるときのようだ

その一ページは僕のまなざしを導き

見通せない本を突き抜ける

 

一回目の赤い結婚証明書は

時間が経つにつれ色あせるが

白黒の写真だけは

依然鮮明である

 

僕たちの結婚式には証人がいない

法律の保証もない

神に注目されることもない

砂漠に立つ一本の樹のようだ

 

僕らの寝室は一間しかない囚人室だ

僕らは抱擁しキスをする

警察の監視の目が光っている中

隠れようのない場所で僕らは交わる

 

ただ僕らの内心は狂気を帯びたままだ

僕たちにもう一度訪れた新婚の夜

涙を流し、嗚咽しながら

君のために「嵐が丘」を朗読する

 

この詩は、あまりの切なさ、かなしさに耐えられない気分にさせられる。これほどの絶望と愛と怒りがあるのだろうか。何より、人が人に与えうる残酷さ、そしてそれに逆らう術のない人間の弱さ。「狂気を帯びたまま」でなくては耐えられまい。

 

 劉暁波の戦う姿勢は言論つまり、あくまでも非暴力によってである。言論には言論で応じるべきではないか。読みたいものを読み、書きたいものを書きながら、語らい、慈しみ合うという、夫婦としての日常はいま、どこにもない。「人も殺さず、盗みもせねど……」というロシア民謡「囚人の歌」の歌詞が浮かぶ。暁波の詩には、日常がそのまま、現れる。お茶のグラスや煙草、埃やお酒など、二人の日常が静かに語られ、また、それがいつしか、追憶のシーンとなっている。彼らにあってしかるべき日常を取り戻すために、私たちに出来ることはないだろうか。

 

 彼の詩が含んでいるのは、たぶん、ある種の人々にとっては猛毒である。一瞬にして、人を死に追いやるだけの強い力を持っている。愛と渇望、絶望と恐怖と狂気、そんなものがないまぜになった、きわめて毒性の強い言葉が使われている。

 人はどこまで精神的に強くいられるだろうかと、考えさせられずにはいられない。言葉が人々に与える影響の大きさも。どの詩も完成度が高く、鋭い言葉がぐさりと心を刺す。ほとんどの日々を牢獄で暮らす劉暁波が耐えていられるのは、詩があるからではないか。

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*『詩集 牢屋の鼠』(劉暁波)書誌情報は→

http://www.kankanbou.com/kankan/?itemid=556