営業と出張と

はじめまして。書肆侃侃房で営業を担当しています、園田と申します。営業といってもさまざまですが、ぼくはおもに本屋さんへの新刊案内や受注、発送、ホームページやfacebookなどSNSの管理をやっています。

本屋さんがたくさん集まっているのは、やはり東京や大阪です。書肆侃侃房は福岡にあるため、東京や大阪の本屋さんには基本的にファクス、電話、メールで新刊やおすすめ本のお知らせをしているのですが、年に何度か出張し、直接お話にうかがっています。出張で出向いたときは「ここがあの雑誌で見た○○書店か~!」「お、Twitterで噂の新刊が……」などなど本屋さんめぐりに没頭したり、書店員さんと話し込んでおもしろい本を教えてもらったりと、思わず仕事を忘れそうになったりすることもしばしば。
ただ、出張慣れしていないためか、いろいろアクシデントに巻き込まれることも多く…
ネットで予約した宿が3畳一間だったり、帰りの飛行機が台風直撃で一日空港をウロウロしたりと、なんだか出張のたびになにか起きている気もします。

最近は全国で開催されている文学フリマに参加する機会が増えたため、その前後を利用して本屋さんを回っています。次の出張は1月22日に開催される文学フリマ京都に合わせての、京都・大阪出張です。さてさて、今回はなにがおきるのか…乞うご期待、でしょうか。

音の記憶からオタク道まで

フリーペーパー最新号「ほんのひとさじvol.4」が12月に発行されました。今回の特集は「音の記憶」

学生時代はオーケストラ愛好会に入っていてビオラを弾いていた私にとってのそれは、オーケストラのチューニングの音。プロのオーケストラの演奏会で聞く音なら、これから始まる演奏への期待にワクワクする音。これが年に一度の定期演奏会、本番での自分の音なら緊張に震えそうな音。今でもたまに夢に出てきたり…。

どちらにしても、チューニングから演奏が始まり…終わった後の感動や高揚感はいつまでも私の記憶に残って忘れられないものになっています。

 

最近、そんな私の音の記憶をくすぐる本を読みました。書肆侃侃房からも『うさと私という本を出している高原英理さんの『不機嫌な姫とブルックナー団』

19世紀オーストリア出身の作曲家ブルックナーをこよなく愛すオタク3人組とコンサートで知り合ったブルックナーファンには珍しい(らしい)女性とのお話。4人とも一歩踏み出せない残念な自分の人生を少し投げやりに客観視しています。ブルックナーの曲を聴くことに関しては、真っ正面から受けとめる懐の広さがある彼らは、正当派のクラシックからは少しかけ離れ、当時なかなか受け入れられなかったブルックナーの音楽を通して、自分たちの姿を反影しているようです。

ブルックナー交響曲が長いこともあって、なかなか実際に演奏をしてもらえず、演奏をしてもらうために主催者の意図に合わせて楽譜を改訂していたそうで、

そのことを弟子に悔しいと責められます。が、ブルックナーはこの時代での完全な演奏は無理だとわかっていて、一切の削除改訂のない楽譜を宮廷図書館に寄贈していたのです。そして「完全な楽譜は、後世の聴衆のためにある」と。なんてかっこいいんだブルックナー

不機嫌な姫とブルックナー団

不機嫌な姫とブルックナー団

 

 

「ほんのひとさじvol.4」にも高原さんがエッセイを書かれていますが、この本のことが出てきます。オタク三人組のひとりが「自分たちにはモーツアルトのような華麗な曲を聴く資格がないし、美しい世界から締め出されている。野暮ったいブルックナーがちょうどいい」と吐露するところがあって、高原さんは自分の経験からこの言葉が出てきたと。キラキラの王道を行くモーツアルトを聴くとき今でも、ほんの少し悲しい気持ちになるそうです。

私はこんな気持ちで音楽を聴き分けたことがないけれど、今回この本を読んで今迄聴かなかったブルックナーを聴いてみたら(ブルックナーのおかげで改訂なしのものが聴けますから)、ものすごく自分の好みにあっていたことに気づいて、しかもモーツアルトはそんなに好きじゃないし、私もブルックナー団に入ってオタクたちに姫とか呼ばれてみたいなどと思ったのでした。そうそうこの本はクラシックのことも詳しいですが、オタクっぷりがすごくて、それもまた楽しいです。

そういえば、『うさと私』も、「うさ」姫と姫を大切にする「私」の想いがオタク道全開に綴られています。こんなに愛されたことってあるか…など、うっかりまじめに考えてしまいます。

寒い季節、あったかい部屋でゆっくりこの世界に浸ってみてくださいな。

今年も一年ありがとうございました。来年も書肆侃侃房の本をよろしくお願いします。

  

生きることの苦さ

このところの寒さと雨で、窓から見える銀杏並木がいっせいに葉を落とし始めた。社内でも、出来上がってくる本と、年末までにやっておきたいことなどがわっと動いていて、いつも以上に落ち着かない。「たべるのがおそい」vol.1とvol.2や今村夏子著『あひる』の動きに気を取られているうちに、新鋭短歌シリーズの3冊が出来上がった。来週には久々の現代歌人シリーズ13光森祐樹歌集『山椒魚が飛んだ日』が出来上がってくる。どんな本もゲラを読んでいたときと、出来上がってきたときとは印象がちがう。新刊書はなんだか、晴れ着を着せてもらった少年少女のように、少し誇らしく、少しはにかんでいるようにおもえるのだ。編集したものにとってもドキドキである。

とくに新鋭短歌シリーズの3冊は、はじめての出版だから、ほんとうにドキドキのはずだ。

佐藤涼子歌集『Midnight sun』は、

 

「見た者でなければ詠めない歌もある例えばあの日の絶望の雪」

 

そのままだと思う。3.11のあの時を詠う佐藤の短歌は胸にナイフを突きつけられている気分になる。佐藤の決して忘れることのできない3.11と、それ以降のハードな日々の思いを閉じ込めている。毎年3.11が近づくと平静でいられなくなる人の歌である。3.11によって人生が変わってしまったのだ。心も恋も。

 

しんくわ歌集『しんくわ』先日、京都で行われた現代歌人集会賞の受賞式で、「『しんくわ』の歌集は出るだけでもう、うれしい」という人に何人も出会った。虫武一俊さんは、受賞の挨拶で何度も「生き恥」という言葉を口にした。歌集を編むこと、人に短歌を読んでもらうことを生き恥と思う感覚に、彼の屈折した思いがこもっている。若い人にとって表現するとはつまり、もしかして、面と向かっては言えない、恥ずかしいことなのかもしれない。

 

虫武さんの歌

「生きかたが洟かむように恥ずかしく花の影にも背を向けている」

 

しんくわさんの歌

 「シャツに触れる乳首が痛く、男子として男子として泣いてしまいそうだ」

 

原田彩加歌集『黄色いボート』働く女性の歌である。

 「スプーンを水切りかごへ投げる音ひびき続ける夜のファミレス」

都心で働きつづける若い女性の姿、孤独感が鮮明である。

 

ベテラン歌人の短歌とちがって、若い人の短歌を読むと、「生きる」ために短歌は必要で、短歌が支えになっていることがわかる。

彼らの短歌に未熟さがあるとすれば、それは生きるということの苦さが、まだ喉元深くにとどまったままだということかもしれない。

「吐き出してしまえ」というのは簡単だけど、それができない「苦さ」なのである。

今村夏子さんの『あひる』がやってきた

出版社をはじめてから、思いがけないことがたくさん起こる。文学ムック「たべるのがおそい」を創刊できたこともだが、そこから今村夏子さんの『あひる』が生まれたこともだ。思いがけず芥川賞にノミネートされたとき、こんなことが起こることもあるのかと驚き、つづけていればこんな恩寵のようなことが訪れるのかとうれしかった。

 

ずっとメールでやりとりしていた今村夏子さんから、初めて電話をもらった日のことは忘れられない。「芥川賞候補」になったことをマスコミ公表するときに、「書肆侃侃房と田島さんを連絡先にしていいか」という問い合わせだった。わたしははじめて耳にする今村夏子さんのちょっとあまくゆったりした声のトーンに魅了された。はい、もちろんですと答えたのだったが、それはまだ、めまぐるしくいろんなことがおきる前ぶれにすぎなかった。

そのとき、あ、この作品を書肆侃侃房で出版することもありうるのだという思いが一瞬頭をかすめた。

わたしは「たべるのがおそい」に寄稿された「あひる」という作品がとても好きだった。それでおそるおそる聞いてみた。「芥川賞に選ばれても選ばれなくても、書肆侃侃房から出版してくださいませんか」と。「えー、ありがとうございます。うれしいです」と今村さんの甘い声が返ってきた。

 

「あひる」は。文章の流れがとてもスムーズで、安心して読めるし、とてもいい作品だが、どんなにゆったり組んでも一冊になるボリュームではなかった。

「もし単行本にしていただくとしたら、作品を足さないといけませんよね。いつまでに書けばいいですか」と今村さんは尋ねた。

寡作だと知っていたので「もしクリスマスプレゼントに間に合えばうれしいけど、無理ならいいです。待ちますよ」とわたしは答えたのだった。「がんばってみます」と、今村さんは言ってくれた。

 

そして、8月31日。まだ途中なのですが……と、今村さんから、二章のつもりという原稿がメールで届いた。「森の兄妹」のほうだ。一章とのつなぎがうまくいかないから一章はあと少し待ってくださいという。ほんとうに9月半ば、こんどは一章のほうが届いた。「おばあちゃんの家」だ。たしかに少しつながりが悪い。うーん、一章と二章をつなぐ何か、か、人かあれば……などとメールでのやりとりが続き、結果的には今の連作短編の形になって、落ち着いたのだった。

読んでいると、ふたつの作品が呼応しあって、とてもいい。

 

今村夏子さんは「おばあさん」や「子ども」の描き方がとてもうまい。読んでいるとおばあさんや子どもたちがくっきりと像を結んでくる。わたしも亡き祖母と対話している気になった。

 

こうして単行本づくりの作業がはじまった。装画の重藤裕子さん、装丁の宮島亜紀さんもがんばってくれて、11月14日に最初の荷物が届いた。今村さんがクリスマスに間に合わせてくれたのだ。書肆侃侃房にとって、素敵なプレゼントだった。

書店と出版社は持ちつ持たれつ

11月5日(土)夜、ブックオカ書店員ナイト「本屋って個人で始めるの大変ですか?」に参加した。書店員の集まりなので書店の話題。トーク登壇者3人とも、最近書店をはじめた独身の若い男性ばかり。福岡、長崎、大分と、規模も場所もさまざまだったが共通しているのは、カフェを併設していること。書籍だけではやっていけないし、とにかく、人に来てもらいたいし、珈琲と本は相性がいい。何より店主が珈琲も本も好き、ということに尽きるようだ。版元との直取引もしているし、取次と取引を始めたところも。書店をやる以上、本の目利きになることが何よりも大事だろう。

こんな人たちがふえて、書店が一つもない小都市に書店が増えるといいと思う。もちろん、お金の問題もあるけど、書店をやろうというのはとにかく、強い決意と意志が必要だといわれた。こうして話を聞きながら、版元も同じだと思う。小さな出版社は、本づくりよりも資金繰り、書店営業に苦労している。いい本を作ったと思っても、書店に本を置いてもらうのも大変だし、本はほんとうに売れない。でも、大手出版社ばかりになれば、最初から売れ筋の本中心になるだろう。ユニークな本はなかなか企画が通らないからだ。小さな版元に頑張ってほしいとつくづく思う。

かくいう書肆侃侃房も、最初の5年、その後の5年とそれぞれ苦労してきた。書店に行っても相手にされないことも多かった。もちろんそんなに露骨ではないが、挨拶だけに終わってしまうのだ。文学ムック「たべるのがおそい」を置いてくれない書店もある。たいていは、いま担当がいないといわれることが多い。それでもめげないことも大事かもしれない。読者がほしいと思う本なら、書店は置かないわけにいかないはずと、ぼそぼそつぶやきながら、書店をあとにする。たまに書店員さんに「書肆侃侃房、知ってますよ。頑張ってくださいね」といわれて、うれしくなることもないわけじゃない。おおむね書店員さんは忙しそうでなかなか声をかけられないけど、こんな時は声をかけてよかったと思う。

昨夜、ついつい、テレビを観てしまった。週刊誌の記者と芸能人がそろう、スクープについてのあれこれがおもしろかったので。事務所の対応次第では、記事内容が変わるとか、お金を受け取ってしまったら、もう記者生命は終わりだとか。駆け引きもおおいという。つまりは、芸能人と週刊誌は持ちつ持たれつということのようだ。

書店と出版社だって、持ちつ持たれつだと思う。書店員が売りたいと思う本を作れよ、と暗にいわれそうだが。

 

                                                                                         

今村夏子さんの新作を、書店に並ぶ前に読むシアワセ

わが社の文学ムック「たべるのがおそい」vol.1に掲載され、第155回芥川賞候補となった今村夏子さんの小説「あひる」。受賞は逃しましたが、選考委員の評価も高く、わが社にも「単行本の発刊はまだですか?」という声も多く寄せられました。

デビュー作「こちらあみ子」以来、今村さんの次の作品が待ち望まれていただけに、この「あひる」は話題を集めましたし、一日も早く単行本を出版したい思いはありましたが、「あひる」は短篇小説ですので、できれば今村さんの次の作品待ってからという思いでした。そしてついに、新しい作品が届きました。

新しい原稿を前にどきどき、わくわく。好きな作家の書き下ろしを、本になる前に読むことができる、編集者だけが味わえるシアワセに、ちょっと心が震えましたよ。

あひるを飼うことになった家族と学校帰りに集ってくる子どもたち…幸せそうな日常にふと差し込む危うさが描かれた「あひる」。おばあちゃんと孫たち、近所の兄妹とのふれあいを通して、揺れ動く子どもたちの心の在りようをあたたかく鋭く描く「おばあちゃんの家」「森の兄妹」の三篇。

何気ない日常のあたたかな空気に、ふとさしこむ影。読んでいる間の何とも言えない心のざわつき…今村夏子独特のワールドをぜひ!(瀬川)

 

あひる

あひる

 

 

旅から生まれた本

書肆侃侃房の原点はと聞かれて、ふっと詰まった。うーん、名前の由来は自分の詩集を作るときに友人から出た言葉がきっかけで決まった「侃々諤々」だけど・・・・。やはり旅の本かなあと思う。福岡にはたくさんの出版社があって、後発組の書肆侃侃房だったから、他と同じスタイルの出版は無理だと思った。その頃、旅の本は地元の旅本も含めて殆どが大手出版社が取材して作るので、地元はやらなかった。わたしも編プロ時代のノウハウを使えるということもあって、あ、これいいかもと思った。

というわけで旅からいろんな本が生まれた。旅の本はもちろん作りつつ、出会った人と別の切り口の本が生まれる。人との出会いが思いがけない本を生み出していくのを見るのはたのしい。

韓国とは、詩人の付き合いしかなかった。それでソウルに旅するうちに、韓国女性文学シリーズが生まれるきっかけになった。『アンニョン、エレナ』がそのはじまりだが、その前に「コーリング・ユー」という短編を『たべるのがおそい』の創刊号に収録し、「おもしろい」といわれた。『アンニョン、エレナ』には、7つの作品が詰まっている。著者のキム・インスクさんとお会いして、はじめて、韓国文学のあり方が日本と違うことを知った。作家にとって、民主化の激動期に青春時代を過ごしたことがいかに大きいか、キムさんの話を聞きながら、つくづくそのことを思った。心に抱えた闇の深さ。それを見据える目。その目は、読者自身の闇の在り処にも届いてくることを思った。

 

アンニョン、エレナ (Woman's Best 韓国女性文学シリーズ1)

アンニョン、エレナ (Woman's Best 韓国女性文学シリーズ1)

 

 

文学ムック たべるのがおそい vol.1

文学ムック たべるのがおそい vol.1